「意味」(いみ)が出てくる聖書の箇所
「意味」(いみ)は口語訳の28か所(旧約7・新約21)に出てきます。日常訳第1版では113か所。
創世記(2か所)
創世記40:5 さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役のふたりは一夜のうちにそれぞれ意味のある夢を見た。
創世記41:11 わたしも彼も一夜のうちに夢を見、それぞれ意味のある夢を見ましたが、
出エジプト記(2か所)
出エジプト12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
出エジプト13:14 後になって、あなたの子が『これはどんな意味ですか』と問うならば、これに言わなければならない、『主が強い手をもって、われわれをエジプトから、奴隷の家から導き出された。
ネヘミヤ記(1か所)
ネヘミヤ記8:8 彼らはその書、すなわち神の律法をめいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。
ダニエル書(2か所)
ダニエル書8:15 われダニエルはこの幻を見て、その意味を知ろうと求めていた時、見よ、人のように見える者が、わたしの前に立った。
ダニエル書10:1 ペルシャの王クロスの第三年に、ベルテシャザルと名づけられたダニエルに、一つの言葉が啓示されたが、その言葉は真実であり、大いなる戦いを意味するものであった。彼はその言葉に心を留め、その幻を悟った。
マタイによる福音書(5か所)
マタイ1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
マタイ9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
マタイ12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
マタイ15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。
マタイ27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコによる福音書(5か所)
マルコ5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
マルコ7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
マルコ7:34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
マルコ15:22 そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。
マルコ15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
ルカによる福音書(2か所)
ルカ8:9 弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。
ルカ8:11 この譬はこういう意味である。種は神の言である。
ヨハネによる福音書(3か所)
ヨハネ7:36 また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。
ヨハネ16:18 彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない」。
ヨハネ20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
コリント人への第一の手紙(3か所)
コリント第一10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
コリント第一14:10 世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。
コリント第一14:11 もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。
ガラテヤ人への手紙(2か所)
ガラテヤ3:17 わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。
ガラテヤ4:1 わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、
ヘブル人への手紙(1か所)
ヘブル7:2 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。