「断ずる」(だんずる)が出てくる聖書の箇所
「断ずる」(だんずる)は口語訳の20か所(旧約5・新約15)に出てきます。日常訳第1版では3か所。
サムエル記下(1か所)
サムエル第二23:17 言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。こうして彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこれらのことを行った。
列王紀上(1か所)
列王紀上21:3 ナボテはアハブに言った、「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることを断じていたしません」。
歴代志上(1か所)
歴代志上11:19 言った、「わが神よ、わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです」。それゆえ、ダビデはこの水を飲もうとはしなかった。三勇士はこのことをおこなった。
ヨブ記(2か所)
ヨブ記27:5 わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。
ヨブ記34:10 それであなたがた理解ある人々よ、わたしに聞け、神は断じて悪を行うことなく、全能者は断じて不義を行うことはない。
ローマ人への手紙(10か所)
ローマ3:4 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
ローマ3:6 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。
ローマ3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
ローマ6:2 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
ローマ6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
ローマ7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
ローマ7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
ローマ9:14 では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
ローマ11:1 そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
ローマ11:11 そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
コリント人への第一の手紙(2か所)
コリント第一6:15 あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
コリント第一8:13 だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。
ガラテヤ人への手紙(3か所)
ガラテヤ2:17 しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。
ガラテヤ3:21 では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。
ガラテヤ6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。