ローマ人への手紙 3章20-28節(ローマ3:20-28)

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20 律法りっぽうを守まもることによって神かみの前まえで正ただしいと認みとめられる人ひとは、一人ひとりもいないからだ。律法りっぽうによって明あきらかになるのは、自分じぶんが罪つみを犯おかしているという自覚じかくだけである。

21 でも今いま、律法りっぽうとは関係かんけいなく、神かみの義ぎが現あらわされた。それは律法りっぽうと預言よげん者しゃたちも証あかししているものだ。

22 その神かみの義ぎは、イエス・キリストを信しんじる信仰しんこうによって、信しんじるすべての人ひとに与あたえられる。そこに区別くべつはない。

23 すべての人ひとは罪つみを犯おかし、神かみの栄光えいこうを受うけられなくなっているからだ。

24 そして、キリスト・イエスによる贖あがないを通とおして、神かみの恵めぐみにより、ただで義ぎと認みとめられる。

25 神かみはこのキリストを、その血ちによって罪つみを償つぐなういけにえとして立たて、それを信しんじる信仰しんこうによって受うけ取とれるようにされた。それは、これまで人ひとが犯おかしてきた罪つみを見逃みのがしてこられたことについて、ご自身じしんの義ぎを示しめすためだった。

26 神かみはこれまで忍耐にんたいして罪つみを見逃みのがしてこられた。そして今いまこの時ときに、ご自分じぶんの義ぎを示しめされた。それは、神かみご自身じしんが正ただしくあり、同時どうじにイエスを信しんじる者ものを義ぎと認みとめる方かたであるためだ。

27 でも、だったらどこに自分じぶんを誇ほこる余地よちがあるのか。まったくない。どんな原理げんりによってそうなったのか。行おこないの原理げんりによってか。いや、そうではなく、信仰しんこうの原理げんりによってだ。

28 わたしたちは、こう考かんがえている。人ひとが神かみに正ただしいと認みとめられるのは、律法りっぽうを守まもる行おこないによるのではなく、信仰しんこうによるのだ。

この箇所を含む見出し義人はいないローマ3:9-20

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